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2015年10月13日

埼玉(さきたま)古墳群と「のぼうの城」

先日、秋晴れに誘われ、「埼玉古墳群」を訪れてみました。
群馬の古墳へはかなり足を運んでいますが、埼玉は初めてです。
どちらも利根川の流域に綺麗に並んでいて、人と水との関わりの深さを実感します。

「埼玉古墳群」は県名発症のの地、行田市大字埼玉にあり、

埼玉(さきたま)古墳群と「のぼうの城」

5世紀後半~7世紀初め頃までに作られた9基の大型古墳が群集し、この頃の古墳群としては我が国有数のものであり、昭和13年に国の史跡に指定されています。

埼玉(さきたま)古墳群と「のぼうの城」

その9基の中で直径105mと日本最大の円墳が「丸墓山古墳」で、墳丘の高さも埼玉古墳群の中では一番です。
出土した埴輪から6世紀前半の古墳と推定されています。

埼玉(さきたま)古墳群と「のぼうの城」

この古墳が最近話題になったのは、映画「のぼうの城」で、忍城攻撃時、石田三成が、城を一望できるこの丸墓山古墳の山頂に本陣を置いたことによりますが、こんな案内板がある程人気があるのでしょうか?

埼玉(さきたま)古墳群と「のぼうの城」

古墳から忍城を眺めると・・・

埼玉(さきたま)古墳群と「のぼうの城」

殆ど城内が見えてしまう程です。

忍城は1478年(文明10年)頃地元豪族の成田顕泰により築城された「守りや易く攻め難い難攻不落の城」として有名でした。
1590年(天正18年)、秀吉の関東平定の際、城主成田氏家は小田原城に籠城、従兄弟の長親を城主として、家臣、農民ら3000の兵が忍城に立籠り石田三成軍の水攻めにも落ず、最後は小田原城の氏家が先に落城したために開城する・・・という、城側の大いなる面目を施すこととなった経緯が小説家され、更に映画化されましたが、偶然、埼玉古墳群を訪れた日にTVで映画が放送されたので見てみました。

野村萬斎の個性が際立ち、それなりに面白かったのですが、石田三成が僅か5日間で築かせたという総延長28kmの堤へ利根川の水を流し入れる場面等、少し現実的でない表現もあり、やはり「お話」の世界に流れてしまいがちな印象を持ちました。

しかし、この戦いにより、忍城は「忍の浮城」という別名を受け、語り伝えられます。

埼玉(さきたま)古墳群と「のぼうの城」


寛永16年(1639)、時の老中、阿部忠秋が入城し、忍城の大改築に着手、孫の正武の代に御三階櫓の建設・城門、土塀の修築等が完成し面目を一新、その後宿場町として機能し、利根川の水運を利用した物流路としても繁栄、江戸後期からは足袋の産地としても名を馳せ、現在もその名残を留めていますが、明治維新後全て取り壊されてしまいました。

埼玉(さきたま)古墳群と「のぼうの城」

市では御三階櫓等を外観復興したりして歴史資料を紹介展示しています。

この後、国宝の鉄剣が発掘された「稲荷山古墳」等、その他の古墳群を巡りました。



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Posted by ruriri at 19:59│Comments(0)日記
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