2015年04月22日
東海道五十三次 高輪~品川宿
午後は、芝増上寺を出発して品川宿へと向かいますが、先ずは高輪を目指します。
芝から高輪にかけては、こんな町が続き、江戸への入口だった様です。

入口手前には、歴史的な江戸開城の会議が行われた場所を示す碑が建てられています。

ここを過ぎると、江戸への南入口として治安の維持と交通規制の機能を持った「高輪大木戸跡」に至ります。
今では片側の一部の石垣のみ残っています。

高輪大木戸は二箇所あり、これも現在は一箇所のみ保存されています。

高輪の名前の由来は、

この辺りの海岸沿いには石垣がずっとつづいていたそうで、一部残っているようです。

次に訪れたのは、四十七士の墓のある「泉岳寺」です。

静かな佇まいですが、お墓には・・・

沢山の人がお参りしていました。
浅野人気は今でも健在でした。
ここから北品川方面を目指し、最終目的地、「品川宿」へ向かいます。
京急北品川駅近くには、徳川家光と沢庵和尚の機知にに富んだ問答碑、

長州藩の高杉晋作と久坂玄瑞がイギリス公使館に焼き討ちをかける密議をした「土蔵相模(つちくらさがみ)跡」の案内板があります。

品川宿は北品川宿と南品川宿の二宿で機能分担していましたが、享保七年(1722)に歩行新宿が加わり、三宿で宿駅業務を果たすことになったそうです。

宿場への道は、現在も生きていて、

商店街へと続いています。
この辺りでかなり疲労を感じてきましたが、漸く終点の「聖蹟公園」へ近づきました。
「日本橋より二里」の道標(品川一里塚)がある「品海(ひんかい)公園に到着。

ゴールの聖蹟公園へ・・・。

ここは品川宿の本陣跡だそうです。
最後に簡単な説明があり、本日は終了。
雨模様の天候でもあり、所々で解説の為立ち止まったりと、思った以上の疲労感でしたが、何気なく歩いている道筋には沢山の歴史資料が残されているいることに改めて驚きを感じた一日でした。
芝から高輪にかけては、こんな町が続き、江戸への入口だった様です。

入口手前には、歴史的な江戸開城の会議が行われた場所を示す碑が建てられています。

ここを過ぎると、江戸への南入口として治安の維持と交通規制の機能を持った「高輪大木戸跡」に至ります。
今では片側の一部の石垣のみ残っています。

高輪大木戸は二箇所あり、これも現在は一箇所のみ保存されています。

高輪の名前の由来は、

この辺りの海岸沿いには石垣がずっとつづいていたそうで、一部残っているようです。

次に訪れたのは、四十七士の墓のある「泉岳寺」です。

静かな佇まいですが、お墓には・・・

沢山の人がお参りしていました。
浅野人気は今でも健在でした。
ここから北品川方面を目指し、最終目的地、「品川宿」へ向かいます。
京急北品川駅近くには、徳川家光と沢庵和尚の機知にに富んだ問答碑、

長州藩の高杉晋作と久坂玄瑞がイギリス公使館に焼き討ちをかける密議をした「土蔵相模(つちくらさがみ)跡」の案内板があります。

品川宿は北品川宿と南品川宿の二宿で機能分担していましたが、享保七年(1722)に歩行新宿が加わり、三宿で宿駅業務を果たすことになったそうです。

宿場への道は、現在も生きていて、

商店街へと続いています。
この辺りでかなり疲労を感じてきましたが、漸く終点の「聖蹟公園」へ近づきました。
「日本橋より二里」の道標(品川一里塚)がある「品海(ひんかい)公園に到着。

ゴールの聖蹟公園へ・・・。

ここは品川宿の本陣跡だそうです。
最後に簡単な説明があり、本日は終了。
雨模様の天候でもあり、所々で解説の為立ち止まったりと、思った以上の疲労感でしたが、何気なく歩いている道筋には沢山の歴史資料が残されているいることに改めて驚きを感じた一日でした。
Posted by ruriri at 19:26│Comments(0)
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