2012年10月18日
名胡桃城址(なぐるみじょうし)
帰り道、以前から気になっていたみなかみ町の「名胡桃城址」へ立ち寄りました。
この城は沼田氏一族といわれる「名胡桃氏」の館跡とされ、越後と上野を結ぶ「三国街道」と「清水峠道」、さらに吾妻の鳥居峠を越えて信濃へ通じる道にも近いため、軍事的、戦略的に重要視されていました。
築城は、北条氏の沼田侵攻がきっかけで、天正7年(1579)真田昌幸が武田勝頼の命を受け上野に進出、名胡桃城等を攻略、北条氏の沼田城攻略のため天然の要害を利用して、短期間で費用もあまりかけずに建てたものだそうです。
案内所があり、入ってみると、
写真や解説があり、閲覧。
奥には休憩室もあり、お茶の用意もされている親切さです。
壁には銅版のレリーフも掛かり、お洒落な作りです。
館の方に声を掛けられ「安中から来ました」というととても喜ばれ、早速ボランティアの方の丁寧な解説を伺うことになりました。
ボランティア制度は3年程前からとのこと、ユニフォームも決まっていました。
先ずは「二ノ丸掘跡」です。
この城は、「二ノ丸」が居住部分で、「三ノ丸」は武器、食料貯蔵庫、「本丸」は作戦会議等なされたようで、勿論天守閣はありません。
掘りは、手前部分がえぐれ、掘りの線がずれていますが、これは敵の見通しを悪くさせるためだそうです。
ここから「喰い違い虎口」といわれるそうですが、「虎口」とは重要な出入り口という意味だそうです。
「名胡桃城址碑」の文字は「徳富蘇峰筆」だそうです。
城廻りには土壁が築かれていたそうで、部分的な再現準備がされているそうです。
城からの眺めはこんな感じです。
短期間で簡素に造ったとはいえ、大変な作業だったと思います。
この城がきっかけで、沼田城が戦わずして調略し、後の豊臣秀吉による小田原北条氏滅亡に至る・・・というその後の結末を知ると不思議な気持ちになります。
場所はこちらです
この城は沼田氏一族といわれる「名胡桃氏」の館跡とされ、越後と上野を結ぶ「三国街道」と「清水峠道」、さらに吾妻の鳥居峠を越えて信濃へ通じる道にも近いため、軍事的、戦略的に重要視されていました。
築城は、北条氏の沼田侵攻がきっかけで、天正7年(1579)真田昌幸が武田勝頼の命を受け上野に進出、名胡桃城等を攻略、北条氏の沼田城攻略のため天然の要害を利用して、短期間で費用もあまりかけずに建てたものだそうです。
案内所があり、入ってみると、
写真や解説があり、閲覧。
奥には休憩室もあり、お茶の用意もされている親切さです。
壁には銅版のレリーフも掛かり、お洒落な作りです。
館の方に声を掛けられ「安中から来ました」というととても喜ばれ、早速ボランティアの方の丁寧な解説を伺うことになりました。
ボランティア制度は3年程前からとのこと、ユニフォームも決まっていました。
先ずは「二ノ丸掘跡」です。
この城は、「二ノ丸」が居住部分で、「三ノ丸」は武器、食料貯蔵庫、「本丸」は作戦会議等なされたようで、勿論天守閣はありません。
掘りは、手前部分がえぐれ、掘りの線がずれていますが、これは敵の見通しを悪くさせるためだそうです。
ここから「喰い違い虎口」といわれるそうですが、「虎口」とは重要な出入り口という意味だそうです。
「名胡桃城址碑」の文字は「徳富蘇峰筆」だそうです。
城廻りには土壁が築かれていたそうで、部分的な再現準備がされているそうです。
城からの眺めはこんな感じです。
短期間で簡素に造ったとはいえ、大変な作業だったと思います。
この城がきっかけで、沼田城が戦わずして調略し、後の豊臣秀吉による小田原北条氏滅亡に至る・・・というその後の結末を知ると不思議な気持ちになります。
場所はこちらです
Posted by ruriri at 16:40│Comments(0)
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